<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>広報ほくしん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://nosai.heteml.jp/publish/atom.xml" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2009-09-24:/publish//2</id>
    <updated>2011-10-20T04:27:44Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type Commercial 4.261</generator>

<entry>
    <title>第４０話：丹霞郷（飯綱町平出）の果樹栽培の先駆者　～見晴園の富岡助右衛門～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2011/10/post-45.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2011:/publish//2.96</id>

    <published>2011-10-20T02:10:08Z</published>
    <updated>2011-10-20T04:27:44Z</updated>

    <summary>　 　上水内郡飯綱町牟礼の「いいづな歴史ふれあい館」を訪れると、二階展示室の一画...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[<p>　</p>
<p>　上水内郡飯綱町牟礼の「いいづな歴史ふれあい館」を訪れると、二階展示室の一画に、ブドウ・モモ・リンゴ・ナシが描かれた、かわいらしい一枚の手ぬぐいが展示されています。それらの果物の間をぬうように、「みはらし果樹園」という文字が見えます。さらに目をこらして見ると、モモに「信州上水内郡中郷村」、ナシには「字平出富岡」と書かれています。</p>
<p>　今回は、明治末年に上水内郡飯綱町と長野市の境にある髻山のふもとで、果樹栽培に取り組んだ富岡助右衛門について紹介します。</p>
<p><img class="mt-image-none" alt="NO40-2_手ぬぐい.png" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO40-2_%E6%89%8B%E3%81%AC%E3%81%90%E3%81%84.png" width="472" height="182" /></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>見晴園手ぬぐい</strong></p>
<p>　まずは、助右衛門の自叙伝から、彼が果樹栽培に取り組むまでの半生をたどりましょう。明治２年（1869）、現在の松代町東条で生まれました。15歳までそこで育ち、父親の転居にしたがい、柳原村（長野市柳原）に移りました。その後、17年から24年まで、柳原学校（現在の長野市立柳原小学校）に務め、31年に柳原村収入役、34年には上水内郡書記となりました。37年から39年にかけて、日本赤十字社第四五救護班書記として日露戦争に従軍しています。39年に日赤長野支部病院の書記となりましたが、乗った病院船の厳しい環境が原因だったためか体調が優れず、とうとう42年の春、その職を辞したのです。そして、先代から所有していた若槻村吉の山林で療養を始めました。この転地療養が、助右衛門と果樹栽培を結びつけるきっかけになりました。</p>
<p><img class="mt-image-none" alt="NO40-1_助右衛門肖像.png" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO40-1_%E5%8A%A9%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E8%82%96%E5%83%8F.png" width="185" height="233" /></p>
<p>　明治42年（1909）５月、助右衛門は吉の山林から髻山のあたりを散策するうちに、柳原学校での教え子だった清水慶造に偶然出会いました。清水が栽培していたブドウやモモの果樹園を見て、ぜひとも教え子の近くで果樹栽培に取り組みたいと考え、清水に栽培適地の斡旋を依頼したのです。その秋には2,000坪の借地を手に入れ、翌年にはさっそくブドウを植えました。</p>
<p>　４年後の大正２年（1913）には、カラブリアン・ブライトン・デラウエーア・ハーバート・ベーコンの５種のぶどうを収穫し、旧松代藩主真田伯爵家、赤十字総裁閑院宮殿下へ献上するまでになりました。そのころには、果樹園の広さは12,000坪、ブドウ6,000本、リンゴ1,000本、ナシ・モモが600本、その他柿や桜桃なども栽培するようになっていました。</p>
<p>　当時の果樹栽培は、経営上の危険度が高かったことから、地代の安い山林原野を開墾して果樹園にすることが多かったようです。助右衛門が果樹栽培を始めた長野盆地西側の丘陵地帯は、干害を受けやすい地質だったため、桑よりもさらに深根性で、乾燥に強いリンゴなどの果樹に適していました。また、未開墾の山林が残っていたことも、果樹栽培の発展には好条件がそろっていたといえます。</p>
<p><img class="mt-image-none" alt="NO40-3_見晴園.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO40-3_%E8%A6%8B%E6%99%B4%E5%9C%92.JPG" width="500" height="362" />　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>見晴園　（大正13年11月3日撮影）</strong></p>
<p>　助右衛門が山林を切り拓いて果樹園にした場所は、明治11年（1878）に明治天皇が北陸巡幸の途中で休憩をとったほど眺望に優れた所として知られており、南東に開けた日当たりの良いところでした。しかし、果樹栽培に対する一般的な見方は、助右衛門自身も書いているように、「園芸事業などは、世間から投機的・山師仕事のように見なされ」、「陰ではずいぶん笑いののしられた」といわれたようです。<br />　<br />　明治40年（1907）代に入り、長野県では農事試験場に果樹部を設置したり、県知事が会長を務める長野県農会でも果樹栽培の講習会を開催したりするようになってきました。助右衛門は、42年から44年にかけて、長野県農会主催の園芸講習会に参加し、リンゴ・アンズ・ブドウなどの栽培や実習科目を学んでいます。また、大正５年（1816）には、助右衛門が発起人となり、上水内郡園芸業者会合を開催し、園芸業者組合創立のきっかけをつくりました。その際に作成された名簿を見ると、委員の出身地は、長野町・三輪村・朝陽村・浅川村・若槻村・古里村・神郷村・長沼村・中郷村・安茂里村・芋井村・小田切村・芹田村におよびました。が、そのうち若槻・中郷・神郷の占める割合は４割近くになります。また、リンゴ栽培農家が圧倒的で、モモ・ナシ・ブドウはそれぞれ数軒で、いずれもリンゴとあわせて栽培していました。リンゴ・ナシ・ブドウ・モモの４種類をつくっていたのは、助右衛門一人でした。</p>
<p>　ところで、助右衛門は大正２年（1913）に初めてブドウを収穫しましたが、その年、すでにブドウ酒の醸造や生果の缶詰製造も構想していました。そして、同年９月には、ブドウ酒製造の免許を長野税務署に申請しています。助右衛門が残した『葡萄酒醸造簿』によると、翌年の９月29日、一号桶にベーコン・カトーバ・コンコードあわせて17貫匁を入れて潰溶し、いよいよブドウ酒製造を始めました。</p>
<p>
<p><img class="mt-image-none" alt="NO40-4_ラベル.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO40-4_%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AB.JPG" width="500" height="397" /></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>見晴園葡萄酒ラベル&nbsp;</strong></p>
<p>　そののち、11月13日までに、ハーバート・デラウェーア・エルヴェラ・ゲーテ・ゴルデンチャンピオン・カラブリアン・ヂンファンデル・ダイアナ・アトカ・未詳一号といった品種を合計して約100貫匁（375㌔㌘）のブドウを使い、あわせて六つの桶になりました。ちなみに、このころのブドウ酒は砂糖を入れて甘みをつけていましたので、助右衛門の醸造所でも3盆砂糖を合計して2貫匁以上入れています。11月13日、14日の両日に六つの桶から１石１斗（198㍑）のブドウ酒を搾り、翌15日には税務署への申告を済ませています。</p>
<p>　助右衛門が残した、『大宝恵(おぼえ)』と書かれた大正元年～７年の売り上げ帳簿を見ると、ところどころに販売の折にサービスとして手ぬぐいを渡したという記録が見られます。その手ぬぐいが、ふれあい館に展示されている手ぬぐいなのでしょうか。<br />　<br />　昭和８年（1933）、中郷村平出（現飯綱町平出）の髻山の周辺は、モモの花が丹（あか）い、霞のように咲き誇る郷という意味で、「丹霞郷」という名前がつけられ、名勝地として内外に宣伝されました。それは、多少位置は変わりましたが、今日まで続いています。助右衛門とブドウ・リンゴ・ナシ、そしてモモとの出会いが、飯綱町の果樹栽培の基礎を築き、さらには観光客を惹きつける美しい景観を生み出したのです。</p>
<p><br />　※いいづな歴史ふれあい館の小山丈夫学芸員からていねいなご助言・教示をいただきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>法政大学史学会評議員<br />監修　　湯　本　軍　一<br /><br />筆者　　舘　林　弘　毅</p>
<p><br />&nbsp;</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>広報ほくしん44号発行のお知らせ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2011/10/44.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2011:/publish//2.95</id>

    <published>2011-10-19T02:36:24Z</published>
    <updated>2011-10-19T03:12:22Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp; ほくしん第44号（平成23年10月）を発行しました。 こちらのＰＤ...]]></summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="「広報ほくしん」発行のお知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="ほくしん44号" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p>ほくしん第44号（平成23年10月）を発行しました。</p>
<p>こちらのＰＤＦからご覧ください.</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３９話：信濃町にトウモロコシの栽培を広め、村おこしに貢献した宣教師　～アルフレッド・ラッセル・ストーン～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2011/09/post-46.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2011:/publish//2.92</id>

    <published>2011-09-14T07:54:28Z</published>
    <updated>2011-10-19T08:32:32Z</updated>

    <summary>　 　信濃町柏原の国道18号線沿いや仁之倉の県道36号線（戸隠線）沿いでは、夏の...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[<p>　</p>
<p>　信濃町柏原の国道18号線沿いや仁之倉の県道36号線（戸隠線）沿いでは、夏の時季にトウモロコシの直売所や焼きトウモロコシの販売所がいくつも軒を並べています。現在、戸隠線は「トウモロコシ街道」とも呼ばれていて、トウモロコシは信濃町の特産品として有名です。<br />　</p>
<p>　野尻湖畔の水戸口公園に「Ａ・Ｒ・ストーン先生の記念碑」と書かれた石碑が建立されています。この石碑には英語で書かれたプレートがあり、そこには、「Ａ・Ｒストーンはこの町に大変貢献した格別な人物としてその栄誉を称える」と刻まれています。</p>
<p>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img class="mt-image-none" alt="NO39-4_記念碑.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO39-4_%E8%A8%98%E5%BF%B5%E7%A2%91.JPG" width="500" height="375" /></span>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;　　　　　　　　　　　　　　　　<strong><font style="FONT-SIZE: 1em">水戸口公園に建立されている記念碑</font></strong></p>
<p><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image">&nbsp;</span>　アルフレッド・ラッセル・ストーンは、三浦綾子原作の『氷点』のなかで、昭和29年（1954）函館沖で洞爺丸が沈没したとき、救命胴衣を見知らぬ人にゆずって死んでいった、カナダ人宣教師のモデルになった人物です。</p>
<p><br />　実は、信濃町の特産品のトウモロコシとアルフレッド・ラッセル・ストーンとは深い関係があるのです。今回はこのアルフレッド・ラッセル・ストーン（以下ストーンと略します）を紹介します。</p>
<p><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><a href="http://nosai.heteml.jp/publish/NO39-3_%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%95%E3%82%93.jpg"></a></span>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img class="mt-image-none" alt="NO39-3_ストーンさん.jpg" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO39-3_%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%95%E3%82%93.jpg" width="500" height="522" /></span>　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong><font style="FONT-SIZE: 1em">アルフレッド・ラッセル・ストーン</font></strong></p>
<p>　ストーンは、カナダ・オンタリオ州ハイゲート村の出身。アイルランド移民のジョン・フランクリンと妻ヘレナの農家の長男として1902年４月29日に生まれました。父の農業の手伝いをしながら少年時代を過ごし、高校卒業後は季節労働者としてアメリカに出稼ぎに行きました。1920年にトロント大学へ入学。大学ではブィクトリアカレッジで学び、ロンドン教区で宣教師となりました。昭和元年（1926）９月日本に赴任し、東京で日本語を学び、同３年（1928）に長野に派遣され、野尻湖畔に外国人別荘地を開いたＤ・ノルマン宣教師の後継者としてこの地を訪れました。同7年夏に外国人別荘地に移り住み、北国街道に面したコンニャク屋の二階の一間を利用して古間教会をひらき、農村伝導に力を入れはじめました。</p>
<p><br />　しかし、当時は昭和の大恐慌時代で国民の多くが苦しい生活を送っていました。なかでも農民の困窮は目を覆うばかりでした。ストーンは宣教師としての布教だけでなく、貧しい人たちのために、農村更生と農業改良運動に寝食を忘れて働きました。<br />　</p>
<p>　トウモロコシは南米の原産で、日本には江戸時代末期に中国から輸入されたと言われています。信濃町地域で栽培されはじめたのは明治中期以降のことです。当時栽培されたものの品種ははっきりしていません。実の黄色のものと黒味をおびたものの二種類があったらしく、これの自然交配が年々たび重なるにつれて黒と黄色の交ざったものとなり、この地方独特の在来種ができあがりました。</p>
<p><br />　夏期に食べ残したものは、軒下などにつり下げて干し、これを炒って粉にし、冬期のおやつにしていました。ストーンがこの地に来た当時は、自家用のおやつに食べられる程度で大量には栽培されていませんでした。</p>
<p><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img class="mt-image-none" alt="NO39-2_もろこし店.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO39-2_%E3%82%82%E3%82%8D%E3%81%93%E3%81%97%E5%BA%97.JPG" width="500" height="375" /></span>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image">&nbsp;</span>　</p>
<p>　　　　　　　　　　　　<font style="FONT-SIZE: 1em"><strong>国道18号線沿いにある焼きとうもろこし販売所</strong></font></p>
<p>　</p>
<p>　昭和12年（1937）ストーンは仲間とともに野菜組合を設立し、上水内郡古間村の水穴に組合事務所を置きました。カナダから新種のトウモロコシやアスパラガス、トマト、ルバーブなど幾種類かの西洋野菜の種を取り寄せ、農家の人たちに栽培を委託しました。さらに、水穴に木造板葺きの工場を建て、コーンや西洋野菜の缶詰を作り、野尻湖畔の外国人別荘地（当時の別荘数は130軒ほど）をはじめ各方面に販売しました。<br />　</p>
<p>　ストーンがカナダから取り入れたとうもろこしはクロスバンダムです。クロスバンダムは収量も多くて見た目も良く在来のものとくらべると甘味が多くて、とてもおいしいトウモロコシだったので、数年を経ずして村中に広がったといわれています。これが特産トウモロコシのルーツとなったのです。</p>
<p><br />　現在栽培されている品種は、ピーターコーン・サニーショコラ・ゴールドラッシュ・味来・優来・めぐみなどです。じつは、信濃町はトウモロコシの栽培に適した地です。朝夕霧の降る日が多く昼夜の寒暖の差が大きいことが実の糖度を上げ、フルーツのような甘さにしてくれます。また、準高冷地帯を生かした酪農も盛んで、そこから出る牛糞堆肥は多肥栽培のトウモロコシに十分に使えるのです。</p>
<p><br />　また、ストーンは、この地方に400年の伝統を持つ信州鎌の製造に強い関心を持っていました。当時の鎌製造は家内制手工業で、規模は小さく従業員はせいぜい2～3人でした。多くは夫婦二人で鎌の製造をしていました。その仕事ぶりは、旧態依然とした方法で、ほとんどは「手打ち」と言って、主人がハンマーを振り上げ妻が相の手をつとめるかなりの重労働でした。</p>
<p><br />　ストーンは新潟の三条の金物工場が動力機械化になっていることを知り、相の手の主婦を重労働から開放するため、古間旭町の綿貫恒雄らとともに機械化に取り組みました。古間教会のすぐそばに、建坪13坪ばかりの木造板葺きの鎌製造工場「三友社」を建てました。小さいながらも古間、柏原では他に例をみない本格的な工場で、最新鋭の設備が施されていました。動力ハンマーが使われると、体に無理がかからず、能率はそれまでをはるかに上回り、生産量は手打ち式に比べると三倍以上にも増えました。しかも切れ味は何ら遜色がありませんでした。機械化の目途が立ったところで、同業の人々に動力ハンマーを広めたのでした。<br />　</p>
<p>　ストーンは、この他にも図書館をつくったり共済制度をはじめたりするなど、地域の社会教育活動や地域文化の発展に貢献する事業をいくつも興しました。</p>
<p>&nbsp;<br />　ところが、アメリカとの戦争色が濃くなると、ストーンは敵性外国人として迫害されるようになり、昭和16年（1941）春、やむなくカナダに帰国しました。カナダにおいて反日感情・排日感情がすさまじくなるなか、ストーンは日系人を訪問し、悩みを聞き励ましの言葉を与えるなど、日系人への奉仕と伝道活動を続けました。<br />　</p>
<p>　終戦翌年、昭和21年（1964）の秋に再来日し、日本の復興のために北海道の開拓地を中心に全国を回りました。洞爺丸の遭難事故で亡くなるまで、多忙な身であったストーンが短い夏期休暇を家族と共に過ごしたのが野尻湖畔でした。<br /></p>
<p>　<img class="mt-image-none" alt="NO39-1_古間教会.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/NO39-1_%E5%8F%A4%E9%96%93%E6%95%99%E4%BC%9A.JPG" width="500" height="375" /></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　<strong><font style="FONT-SIZE: 1em">古間の教会として利用されていた建物</font></strong></p>
<p>　</p>
<p>　ストーンが信州農民福音学校の参加者に贈った聖書には、直筆で「土を愛し、人を愛し、神を愛せよ」と書かれていたそうです。ストーンは農民として農村に生き、そこに働きの場を求めました。生活苦にあえぐ農民の生活の向上を願い、農民と苦楽を共にし、一農民になりきろうとしました。ストーンは文化も習慣も違う日本にあって、集会では囲炉裏を囲んで座り日本食を食べ、流ちょうな日本語で語り合っていました。農民の集まりにもう一人、近所の農民が加わったような感じだったと言われています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>法政大学史学会評議員<br />監修　　湯　本　軍　一<br /><br />筆者　　高　木　元　治<br /></p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>広報ほくしん43号発行のお知らせ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2011/09/43-1.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2011:/publish//2.90</id>

    <published>2011-09-13T04:47:14Z</published>
    <updated>2011-10-20T04:32:51Z</updated>

    <summary> 広報ほくしん43号（平成23年6月）を発行しました。 こちらのPDFからご覧く...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ほくしん43号" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        
広報ほくしん43号（平成23年6月）を発行しました。
こちらのPDFからご覧ください。
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３８話：　「綿内蓮根」栽培の先覚者たち～稲田新平・小林善之丞・小林留三郎～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2011/01/post-42.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2011:/publish//2.78</id>

    <published>2011-01-04T04:39:37Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:17:02Z</updated>

    <summary>　穴があいているところから「先が見通せる」と、縁起物としてお節料理に欠かせないも...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[　穴があいているところから「先が見通せる」と、縁起物としてお節料理に欠かせないものに蓮根があります。蓮根はハスの肥大化した根茎です。<br /><br />　今回は、長野市若穂綿内地区において、江戸時代から栽培されている、「綿内蓮根」栽培の先覚者三人を紹介します。<br />　上信越自動車道の須坂・長野東インターチェンジから上り線を700メートルほど進むと、左手の山裾に集落が見えてきます。長野市若穂綿内温湯区です。温湯区では、山麓に接する水田の標高が一番低くなっています。そこは、千曲川の旧河道で、現在は千曲川の後背湿地にあたります。そのため、集落前面の「めえだ」（「前田」のこと）は、「へどろ」が70メートルもの厚さで堆積しており、底なしといわれるほどの湿田でした。土地改良工事のすんだ現在でも、水平だった道路が、片側だけ沈んで傾いているところもあるほどです。<br /><br />　温湯に住む稲田新平は、集落前の田がひどい深田（湿田）のため、稲の不作に連年苦しんでいました。困っていた新平に、蓮根作りを勧める人がいました。そこで、天保12年（1841）埴科郡東条村加賀井（長野市松代町東条）から種蓮根を取り寄せて、湿田に試作してみました。地味が合っていたのか思いのほか生育がよく、翌13年に掘ってみると蓮根の出来もよく、販売すれば年貢を納めることもできる見通しがたちました。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 545px; HEIGHT: 237px" class="mt-image-none" alt="furusato1.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/furusato1.JPG" width="795" height="354" /></span>　<br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><strong>写真1　蓮根栽培願書（長野市若穂綿内温湯　渡辺博夫氏蔵）<br /><br /><br /></strong></font>　そこで、同年8月、新平は親類の佐源太を願い人に立て、温湯前の湿田を蓮田へ転作したいので認めてほしいと、須坂藩に願い出たのでした。<br /><br />　願いは、聞き入れられました。ところが、蓮の葉の下にスズメが隠れるのを見た、周りに水田を持つ百姓たちが、スズメの食害が増えるとして、藩に蓮田の廃止を訴えたのでした。このため、蓮根栽培は一時中断することになりました。しかし、新平は苦心の末、藩の許可を得て、再び蓮田を作ることに成功しました。<br /><br />　その後、蓮根の収益性のよさに気づいた村人たちは、稲田から蓮田への転作を進め、温湯を中心に綿内村の湿田に蓮根栽培が広がっていきました。江戸時代も終わりにちかい嘉永年中（1848～1854）、須坂藩家老丸山辰政は、その著作の中で、須坂藩領内の名産の一つに、温湯の蓮根をあげています。明治10年（1877）ごろの資料にも、綿内村では換金作物として、蓮根を年間6400貫目生産し、須坂・長野へ移出していると記されています。明治から大正初期までは、男は天秤棒で、女は木箱を風呂敷に包み背負って、須坂・長野方面に蓮根売りに出かけたそうです。<br /><br />　新平の導入した蓮根は赤い花の咲く、在来種の赤蓮根でした。粘りが強い肉質で味もよい反面、収量が少なく、地下茎が泥の中に深く入り込むため、掘りにくいという欠点がありました。蓮根商いをしていた綿内村清水（長野市若穂綿内清水）の小林善之丞は、この欠点を克服できないものかと研究を重ね、東京蓮根にたどりつきました。この蓮根には、大きな白い花が咲き、赤蓮根よりも収量が多く、地下茎も地中深く入り込まないのでした。また、外皮が白く、やや粘質が弱い肉質ながら美味しいのでした。明治40年（1907）ごろ、善之丞は、千葉県の浦安（浦安市）から東京蓮根の種を取り寄せ、試作に成功しました。東京蓮根は味もみばえもよかったため、温湯の蓮根は有名になり、近在の町場へ「綿内蓮根」として販売されるようになりました。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 489px; HEIGHT: 319px" class="mt-image-none" alt="furusato2.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/furusato2.JPG" width="784" height="584" /></span>　<br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><font style="FONT-SIZE: 1.25em"><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><font style="FONT-SIZE: 1.25em"><strong><font style="FONT-SIZE: 1.25em"><font style="FONT-SIZE: 0.8em">写真</font><font style="FONT-SIZE: 0.8em">2</font>　<font style="FONT-SIZE: 0.8em">蓮の花咲く蓮田と、軟弱地盤のために傾いた道路（温湯前田地籍　平成</font></font>22年8月）<br /><br /><br /></strong></font></font></font></font></font>　その後、東京蓮根の栽培は増えていきました。専門に蓮根を栽培する蓮根屋が生まれ、温湯・清水・大橋を中心に、島・菱田・牛池（いずれも綿内地区内）などに蓮田が営まれました。蓮根屋に雇われて、毎日専門に蓮根を掘る「掘り子」も生まれました。当時の農家は、養蚕と稲作で多忙でしたが、蓮根栽培は農閑期に仕事ができ、収入にもつながることが盛んになった理由でした。<br /><br />　また、井上村・豊洲村（以上須坂市）、小布施村（小布施町）、延徳村（中野市）、木島村（飯山市）、松代町（長野市松代町）などの湿田へも出作りされました。出作り地で生産された蓮根も、「綿内蓮根」として出荷されました。<br /><br />　大正11年（1922）の河東鉄道（現長野電鉄屋代線）が、屋代から須坂まで開通しました。これも、綿内蓮根の栽培をさかんにした要因でした。輸送上の利便性が飛躍的に高まり販路が拡大し、県内は遠く上田・小諸・佐久、県外は新潟や長岡方面にまで送られるようになりました。綿内駅には、長くもつように洗わず泥つきのまま、ワラで梱包された蓮根が何百と積まれ、連日のように出荷されていったとのことです。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 459px; HEIGHT: 317px" class="mt-image-none" alt="furusato3.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/furusato3.JPG" width="626" height="471" /></span><br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><strong>写真3　綿内蓮根の収穫風景（平成22年11月）<br />9月中旬～翌年6月ごろまで収穫が続く、国産蓮根の三割を生産する茨城県霞ヶ浦周辺などでは、ホースを使って水を噴出させ、水圧を利用して掘っている。しかし、綿内では、足の付け根まであるゴム長靴とゴム手袋を身につけ、水が干しあがった状態の泥を専用のくわと手だけで慎重に掘り起こして収穫している。<br /><br /><br /></strong></font>　最盛期の昭和5年（1930）ごろには、綿内地区内に40～50町歩ぐらい、出作りも合わせると193町歩ほどの栽培面積があったようです。<br /><br />　特産物として名声を誇った綿内蓮根も、昭和5・6年ごろから、連作障害による「枯れ」という病気が出始め、急激に作付け面積が減っていきました。これを憂えた綿内村清水の小林留三郎は、昭和17年（1942）ごろ、支那蓮根の種を千葉県から購入して自分の稲田に試作しました。すると、病気も発生せず、多くの収量をあげることができました。支那蓮根は、白い大きな花が咲き、地中浅く地下茎が走り、掘り出しやすく、病気に強いという特性を持っていました。太く、肉厚で粘り気が少なく、シャキシャキした歯ざわりです。<br /><br />　しかし、戦時中のこと、食糧増産のために、蓮田にも稲を植えたため、せっかく導入した支那蓮根も、わずかに温湯の「めいだ」に栽培されたのみです。蓮根の肥料によい大豆をやっとのことで手に入れて施し、種蓮根を残したとのことです。<br /><br />　戦後、こうして残された支那蓮根が、地元綿内はもちろん、木島村（飯山市）や松代町清野（長野市）などの湿田に、綿内の蓮根屋によって栽培されました。<br /><br />　しかし、その後田畑の耕地整理や土地改良事業によって、蓮根栽培に適した湿田は乾田に変わっていきました。また、蓮根屋の後継者の減少などで、昭和50年（1975）には綿内蓮根の栽培者は約30名、栽培面積も10ヘクタールほどに減少しました。さらに、今では、栽培者は10名弱、栽培面積も3ヘクタールほどになってしまいました。<br /><br />　現在、綿内蓮根は、地元綿内の直売店や近隣の温泉施設の売店、地元Aコープ店の産直コーナーで販売している他は、贈答品用として扱われているのみです。江戸時代以来、綿内地区の先人たちの努力によって作り続けられてきた綿内蓮根ですが、今や「幻の蓮根」となっています。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 483px; HEIGHT: 348px" class="mt-image-none" alt="furusato4.JPG" src="http://nosai.heteml.jp/publish/furusato4.JPG" width="671" height="505" /></span><br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em"><strong>写真4　綿内地区唯一の蓮根直売所（平成22年11月）<br />次々とお客さんが訪れ、綿内蓮根を買い求めていた<br /><br /><br /><br /></strong></font>法政大学史学会評議員<br />監修　　湯　本　軍　一<br /><br />筆者　　太　田　典　孝<br />
<p></p>
<p></p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３７話：　松代に適したナガイモの優良種イモを選抜した上原脩</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2010/09/post-31.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2010:/publish//2.59</id>

    <published>2010-09-30T04:15:30Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:18:40Z</updated>

    <summary>　平成２１年（２００９）に完成した赤坂橋から、長野市松代町岩野地区を臨むと、緑の...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[　平成２１年（２００９）に完成した赤坂橋から、長野市松代町岩野地区を臨むと、緑のじゅうたんが広がっています。一面のナガイモ畑です。現在、ナガイモの作付面積では、青森県、北海道についで全国３位の長野県ですが、戦後から昭和３０年代までは、全国１位でした。今回は、岩野地区で昭和３０年（１９５５）からナガイモの栽培に取り組み、「松代のナガイモ」を全国的に有名にした上原脩（１９２６～８８）について紹介します。<br /><br />　岩野地区は、明治１３年（１８８０）の資料によると、「千曲川洪水のために砂礫が多いので、桑、サツマイモ、大豆の栽培に向いています。それらの作物のほか、ダイコン、ニンジン、ナガイモ（一歳芋）を生産する」とあります。<br /><br />　 
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 319px; HEIGHT: 200px" class="mt-image-none" alt="image4101.JPGのサムネール画像" src="http://nosai.heteml.jp/publish/assets_c/2010/09/image4101-thumb-1824x1368-137.jpg" width="1824" height="1368" /></span><br /><small>赤坂橋付近の堤内地に広がるナガイモ畑（22年8月）</small>　<br /><br />　ナガイモは栄養体繁殖（無性生殖）で増えます。腋芽に発生する零余子を１～２年間養成し、５０～１００㌘程度に肥大した一本イモを、種イモにするのが一般的でした。明治４０年（１９０７）ころになると、東寺尾（松代町）に住む若林宗之輔が、それまでの一本のイモを植え付ける方法から、親イモを１５～２０㌢に切って植える、今日の切りイモにあたる方法を試みました。<br /><br />　同じころ、岩野で青果商をしていた林林平は、それまで栽培されていた比較的細長い収量の少ない目凸（メダカ）系統のナガイモではなく、目凹（メクボ）系統に着目しました。試作したところ、品質・形状とも良好で収量も多かったので、この系統の選抜に全力を傾注したのです。<br /><br />　このように、切りイモや種イモの選抜により、良いナガイモを栽培する農家が出てきましたが、ナガイモがこの地域の主要農産物になったわけではありません。松代周辺では、桑が圧倒的で、そのほかに、サツマイモ、ゴボウなどの栽培が主でした。そして、昭和初年ころからリンゴの栽培が本格的に導入されたのです。<br /><br />　 
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 236px; HEIGHT: 265px" class="mt-image-none" alt="image4102.jpg" src="http://nosai.heteml.jp/publish/image4102.jpg" width="891" height="1054" /></span><br />ナガイモ畑で収穫したナガイモをもつ上原脩（<small>昭和47年ころ）</small>　<br /><br />　戦中・戦後の食料難の時期には、麦やサツマイモが盛んに作られました。戦後の昭和２７年（１９５２）ころから食料事情が好転し、麦や大豆などの作付けが減少しました。かわりにタマネギ、ナガイモなどの野菜、リンゴなどの果樹が作られるようになったのです。<br /><br />　上原脩がナガイモの栽培を始めたのは、昭和３０年（１９５５）、３０歳のときのことでした。それまでは、養蚕とリンゴを組み合わせた経営でしたが、リンゴの価格が下落し始めたことや、リンゴと養蚕の時期が重なることが悩みでした。そこで、リンゴの木を伐採し、労力的に可能なナガイモ栽培に切り替え、桑とナガイモを栽培することにしました。<br /><br />　上原がもっとも力を入れたのは、種イモの選抜でした。もともと桑園だったところをナガイモ畑にしたこともあって、当初はなかなか良いイモがとれませんでした。栄養体繁殖のナガイモは、種イモの良し悪しがそのまま収穫物の形質を左右します。そこで、３２年から松代のほか、近隣の農家の良いナガイモを集め、何種類かの系統の試作を始めたのです。そして、３５年には良い系統を見つけ出し、種イモとして増殖し、それを栽培に移した結果、形状、収量とも驚くほどの改善が見られました。しかし、同一系統での種イモの選抜を繰り返したため、形状は良くなったものの、収量が低下し始めました。その後、経験のなかから、イモの形状は、中太りで尻部が丸く、肥大性が旺盛で、病害虫の症状がないものを基準におくようにしました。ちなみに、種イモの選抜でもっともむずかしい点は、種イモ畑で育った種イモ自体の形状（形や大きさ）が良かったからといって、出荷用の畑で育ったイモのでき具合が良いとは限りませんでした。４７年ころには、約９０㌃のナガイモ畑のうち、出荷用の栽培畑が７５㌃、複数の原種を育てて優良系を増殖する種イモ畑が１５㌃でした。<br /><br /><br />　 
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 321px; HEIGHT: 194px" class="mt-image-none" alt="image4103.jpg" src="http://nosai.heteml.jp/publish/image4103.jpg" width="1559" height="1023" /></span><br /><small>褐色腐敗病の防除のため、クロールピクリン剤を土壌に注入（昭和47年ころ）</small>　<br /><br />　上原が工夫した二つ目は、土づくりです。「収穫するときのイモ掘りが上手な人は、つぎの年のイモのできは良くない。かえって下手で土をよく動かす人ほど、翌年は良いイモができる」といわれていました。そこで、土を柔らかくし、均一にするために、収穫の際には４０～５０㌢幅に掘れる堀取り機を使って、できるだけ畑全体の土が動くように掘り返しました。松代を含む長野盆地の南部は、養蚕が盛んだったことから、家畜の飼育は少なく、土壌への有機質の補給が少ない傾向にあったのです。上原は生わら、鶏糞などを主体にした有機質を補ったり、秋の枯れた茎葉も堆肥として利用したりしました。石灰、堆肥を施して整地したあとには、クロールピクリン剤を使って土壌消毒をしました。この薬剤は、３４年ころから松代で発生し始めた、褐色腐敗病を防ぐ効果がありました。<br /><br />　 
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 325px; HEIGHT: 197px" class="mt-image-none" alt="image4104.jpg" src="http://nosai.heteml.jp/publish/image4104.jpg" width="1513" height="1020" /></span><br /><small>野本武堀取り機でのナガイモを掘り出し（昭和47年ころ）</small>　<br /><br />　三つ目の工夫点は、植え付け前の切りイモの準備でした。４月下旬から５月上旬の時期に、種イモを一個１００～１３０㌘に切り分け、切ったイモの切り口が腐敗しないように、キュアリング（癒傷組織をつくる）をしたあと、５月中旬に植え付けるのです。キュアリングから植え付けまで、一般的には切り口に消石灰を塗ったあと、３段に積み重ね、直射日光を避けながら、温度２０～２５度・湿度３０㌫のハウス内で、傷口を保護する癒傷組織ができるまで、１０日ほどおいていました。しかし、上原は、切り口に消石灰を塗り、庭先の日当たりの良い地面に５㍉程度の小砂利を２～３㌢の厚さで敷いた上に、切りイモを２段に並べます。その後、日焼け防止にムシロをかけたり、防霜保温のためにコモをかけたりして、１５日間ほど日干しにします。雨にも合わせるなど、できるだけ自然の状態での管理を目指しました。<br /><br />　上原は、そのほかに、種イモの植え付け間隔をやや広めにとりました。このことにより、一本１３００㌘を超えるナガイモを多く収穫できるようになりました。また、つるが巻き付く支柱は、高いほどイモの肥大は良いという点と、高いと材料費がかさむうえに台風に弱いという点を勘案し、２１０センチの竹をまっすぐに立てる方法をとりました。<br /><br />　上原が思考錯誤を繰り返しながら築きあげてきたナガイモ栽培の技術は、昭和４８年（１９７３）、農山漁村文化協会が発行する『農業技術大系』に取りあげられました。当時の全国ナガイモ三大産地の一つである、長野県を代表し、徹底した種イモの選抜と土づくり、堀取り機活用による省力化など、先進的な取り組みが詳しく報告されています。<br /><br /><br />法政大学史学会評議員<br />監修　　　　湯本　軍一<br /><br />筆者　　　　舘林　弘毅<br />
<p></p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３６話：　旧平野村・西江部(現中野市)でセロリ栽培を始めた兄弟～長島要之助と氷見岩二郎～</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2010/06/post-29.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2010:/publish//2.54</id>

    <published>2010-06-09T05:52:13Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:19:22Z</updated>

    <summary>　現在、中野市の西江部には、9軒の農家でつくる洋菜組合があります。この組合は、昭...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[　現在、中野市の西江部には、9軒の農家でつくる洋菜組合があります。この組合は、昭和13年（1938）ごろ、西江部の農家の人たちを中心に創設されたものです。最盛期の昭和20年代から30年代半ば（1945～60）には、西江部の農家のほぼ全戸と近村の農家の数軒が加入し、「平野村清浄洋菜組合」と言っていました。当時、西江部は、セロリ栽培の特産地として位置づけられ、中央市場からも高く評価された地域でした。<br /><br />　この地域のセロリ栽培の礎をつくったのは、長島要之助と弟の氷見岩二郎兄弟。今回は、この二人の人物とセロリ栽培について紹介します。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 223px; HEIGHT: 282px" class="mt-image-none" alt="" src="http://nosai.heteml.jp/publish/img3066.jpg" width="2448" height="3264" /></span><br />氷見　岩二郎さん<br /><br />　要之助は、明治20年（1887）、弟の岩二郎は明治30年（1897）西江部に生まれました。岩二郎は、氷見姓になって分家に出ました。<br /><br />　要之助は篤農家で、大正末に西江部にできた「農事改良組合」のなかで農事改良を進めるのでした。その業績が認められ、同組合は大正11年（1922）平和記念東京博覧会会長より名誉ある表彰を受けました。表彰内容は、①水稲の健全育成　②米の公的検査　③青年団による稲の品種や肥料の改良を試みるための試験田事業などでした。長野県知事が水田の視察に来るなど、要之助は稲の先生として名を挙げ、米作りの指導をして歩くようになったといいます。<br /><br />　ところが、昭和4年（1929）に大恐慌が起き、西江部の農家もその渦に巻き込まれていきました。最も強く影響を受けたのは養蚕農家で、昭和4年夏秋蚕の一貫当たり平均9円7銭であったものが5年には2円50銭に暴落したのです。当時西江部にあった60数戸の農家の大部分は養蚕による現金収入で家計を支えていたので、経済恐慌の荒波に押し流されようとしていました。そんななか、要之助らは、みずからの力で経済更正計画を立て実行しようと考え、「江部農事真興会」を立ち上げたのです。会員は17名で会長に要之助が就任しました。<br /><br />　真興会が計画・推進したのは、農業経営の中に家畜を位置づける有蓄農家で、養豚など中小家畜の飼育とこれによる自給肥料を増産するというものでした。真興会が力を入れたもう一つは、セロリ（洋菜）栽培とその研究でした。<br /><br />　セロリの生育適温は15度～20度で、肥料をたくさん必要とする野菜です。また、土壌水分の多いところでないと十分な発育をしません。かといって、水もちのよい粘土土壌がよいというわけでもありません。西江部地域は、豊富な湧き水の流路に位置し、その水を引用することができました。しかも、地下水が高いことやある程度の水はけの良い土壌という条件にも合う土地柄でした。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 387px; HEIGHT: 269px" class="mt-image-none" alt="" src="http://nosai.heteml.jp/publish/img079.jpg" width="934" height="674" /></span><br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em">江部農事真興会　前列中央の着物姿の人が長島要之助（西江部区史より転載）<br /><br /></font>　要之助・岩二郎ら真興会の4人が南安曇郡の穂高町へ出かけ、勝野某という人からセロリ栽培の指導を受けました。そして、穂高町の苗を持ち帰ったり、アメリカから種を直接輸入したりして試作をしました。<br /><br />　木箱を作って種を蒔き、温室にして庭先におきました。芽がでたあとどうしたらいいかわからないことがあると、そのつど、安曇郡のセロリ栽培農家のところに聞きに行きました。しかし、1年目は栽培に失敗。2年目にはなんとか栽培できるようになりましたが、セロリの臭いが強いため、この地域で買って食べようという人はいませんでした。東京の市場に出せば売れるということが分かり、3年目には東京の中央市場への出荷ができ、セロリ栽培の手応えを感じられるようになったといいます。<br /><br />　要之助は米作りの指導員として、県下各地をまわっていたので、田畑の仕事は、もっぱら弟の岩二郎1人でやっていました。岩二郎は、一反五畝の畑のうち五畝でセロリを栽培しました。収穫したセロリを夜なべで4～5本ずつまとめて、箱詰めにして東京の神田市場へ出荷しました。消毒は収穫するまでに10回ほどやらなければなりませんでした。それでもベト病などの病気が入ってしまったときは、捨てなければなりません。それでも、岩二郎のセロリ栽培がある程度順調になると、セロリを栽培する農家が一気に増えたのです。<br /><br />　水田を利用して高くたてた畝に苗を二列に植え、間に肥料をまく栽培方法でした。根に水がいきわたるように乾燥具合を見ながら畝間に水をはりました。肥料を根に速く吸収させるためにも、畝を高くし水を灌水させる方法が適していたのです。<br /><br />　肥料は硫安を使いましたが、糞尿を3～6か月間野だめで熟成させた下肥も使っていました。ところが、戦後、進駐軍から「洋菜に蛔虫がついていてはいけない」という指導が入りました。西江部のセロリは下肥を使っているという評判がたって売れなくなってしまったのです。下肥を使わなくなっても売り上げは伸びませんでした。途方にくれていたとき、千葉・静岡・東京などのセロリ栽培の先進地では、「清浄野菜」という名前で売り上げを伸ばしていることがわかったのです。岩二郎は、「清浄野菜」というラベルを作って貼りました。この対策が功を奏し、東京など中央市場で信用されて高値で売れるようになったといいます。<br /><br />　セロリの栽培はとても手間がかかりました。肥料を多く使うので、雑草も多く、その草取りが大変で、側枝取り（子掻き）も大きな手間でした。商品価値を高めるために茎を柔らかく白くしなければなりません（柔白）。そのために、収穫前に飼料が入っていた紙の袋を切って一株ずつ巻いてわらでしばったりしたのです。収穫も大変手間のかかる作業でした。根っこをつけたまま収穫し、水を吸い込ませた苔（志賀高原の湿地帯にある苔を乾燥しておいたもの）を根っこの回りに巻き、その上に油紙を巻いて箱詰めにしました。<br /><br />　初めの頃は、リヤカーに積んで中野駅に持って行き、貨物便で東京へ送っていました。昭和30年代（1955～64）になって、西江部北組の公会堂前に下屋を出して集荷所を作り、大型トラックで送るようになりました。<br /><br />　市場とのやりとりは電話がなかったので、郵便局を通しての電報でした。郵便局員が毎日自転車で電報を配達する姿が見られたほどでした。夕方集荷場にセロリを持ち寄った時に電報も持ち寄り、いくらで売れたかの情報交換をしました。高値は一箱（15キログラム）が千円にもなり、畑の畝が「一速千円」と言われるほどでした。しかし、「クサレアリニヤスシ　ニトメロ」というような電報が入ると、夕方荷を出してから、夜行列車に乗って東京の市場へ確かめに行ったこともあったといいます。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img style="WIDTH: 389px; HEIGHT: 262px" class="mt-image-none" alt="" src="http://nosai.heteml.jp/publish/img081.jpg" width="2388" height="1555" /></span><br /><font style="FONT-SIZE: 0.8em">旧平野村洋裁組合集荷所（青木康重氏所蔵）<br /><br /></font>　出荷は、共選でなく「〇〇農園」というように名前をつけた個選（各自の出荷）でした。組合としての業務は、ラベル・木箱・規格などの統一、トラック便の運賃の交渉などでした。<br /><br />　西江部のセロリ栽培の最盛期は34～5年ころまで。技術の進歩と品種改良などで、全国各地で栽培できるようになり、西江部の栽培農家は減少し現在に至っています。<br /><br /><br />法政大学史学会評議員<br />監修　　湯本　軍一<br /><br />筆者　　高木　元治<br />
<p></p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３５話：　須坂のぶどうの先駆者　勝山仲兵衛</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2009/12/post-18.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2009:/publish//2.38</id>

    <published>2009-12-11T07:20:46Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:21:58Z</updated>

    <summary>　須坂市街地から小布施町に向かって国道４０３号線を進むと、「高畑」信号の少し向こ...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[　須坂市街地から小布施町に向かって国道４０３号線を進むと、「高畑」信号の少し向こう左側に、道に面して大きな黒い石碑があります。「須坂ぶどう発祥地」「勝山仲兵衛翁之碑」などと刻まれています。今回は、須坂・上高井地方でもっとも早くぶどう栽培に取り組んだ、勝山仲兵衛を紹介します。<br /><br />　勝山仲兵衛は、弘化元年（１８４４）高井郡沼目村（須坂市）に生まれました。成人してからは、父とともに農業を営んでいました。<br /><br />　当時、次第に外国との貿易がさかんになり、長野県下では養蚕・蚕種製造が行なわれていました。仲兵衛も蚕種製造を始め、豊洲村高畑（須坂市）にも桑畑を持ちました。高畑は、松川左岸日滝扇状地扇央部の旱魃地です。<br /><br />　仲兵衛は毎日人力車に乗って、沼目の本宅と高畑の別宅の間を往復しながら養蚕と蚕種製造に励みました。でも、仲兵衛は、養蚕だけに頼る農業経営に不安を感じ、生糸・蚕種以外の商品作物の必要を痛感していたのでした。<br /><br />　たまたま蚕種輸出の関係で横浜に行った仲兵衛は、アメリカ人からぶどう酒をすすめられました。最初は、赤い色から、人の血と勘違いしたとの話も伝えられています。これが、仲兵衛とぶどう酒（欧米系ぶどう）との出会いでした。当時、ぶどう酒は、滋養強壮の効果があるということで、爆発的な人気を呼び、価格も高く、病気見舞いなどでは貴重品でした。<br /><br />　明治１９年（１８８６）、仲兵衛は、高畑にぶどう園の開設を計画したのです。年間降水量９５０ミリメートルという気象条件に、松川扇状地扇央部の火山灰土壌という土壌条件が、ぶどう栽培に適していると考えたからです。<br /><br />　同年、仲兵は、ぶどう栽培法調査のため、東京　駒場の農科大学（現東京大学農学部の前身）を尋ねました。大学でもまだ栽培法は明らかになっておらず、当時ぶどう栽培の第一人者であった小沢善兵衛を紹介されました。善兵衛は、アメリカに渡って欧米系ぶどうの栽培技術を学び、当時東京市下谷区（現東京都台東区谷中）の農園で、欧米系ぶどうなどの苗木を生産・販売していました。仲兵衛は、善兵衛について研究したのち、コンコード・ブライトン・ナイアガラ・ハーバードなど数十品種の苗を持ち帰りました。そして、高畑の別宅前の畑（現在のJAコープアグリスの敷地）四反歩に植え付けました。一反歩に１３本という密植栽培でした。小沢善兵衛の指導を受けてきたとはいえ、何から何まで未知なことばかりでした。<br /><br />　同年、ぶどう棚作りが始まりました。高井・山田（現高井郡高山村）の山から伐り出してきた栗の丸太で作りましたが、丸太を組み、縄で結わえる作業は、地元の人や泊り込みの新潟県の人たちがあたりました。<br /><br />　ぶどう棚の下の草刈りがまた大仕事で、常時地元の人３、４人が従事していたほどです。<br /><br />　病虫害対策にも苦慮しました。消毒が始まったのは大正８年（１９１９）ごろ、年３回ほど、手押し車に手押しポンプを載せて行ないました。薬剤はボルドー液のみで、黒痘病・晩腐病などの病気に悩まされました。また、ゾウムシなどの害虫は、園内をくまなく巡り、手で捕まえました。<br /><br />　ぶどうの販売は、県道須坂－中野線（現国道４０３号線）沿いに直売所を開いて行ないました。<br /><br />　品種ごとに根曲り竹製の手かごに盛り込み、陳列棚の上に並べて売りました。お客は自分で、かごから欲しいぶどうの房を取り、珍しさもあって飛ぶように売れました。<br /><br />　仲兵衛は、しだいに栽培面積を増やしていきました。明治２９年（１８９６）には五反歩余、同３２年には新たに五反歩拡張して一町余のぶどう園に発展しました。<br /><br />　いっぽう、仲兵衛に刺激されてぶどう栽培を始める者も出てきました。仲兵衛は、乞われるまま、ぶどう栽培技術の普及に奔走したので、近隣あわせてぶどう栽培面積は二十町ほどになり、生産量も増加しました。県道沿いでの直売のほか、地元須坂をはじめ、小布施・長野・飯山・豊野などでも販売して、味のよいことで「高畑ぶどう」は有名になりました。<br /><br />　生食需要だけでは限界を感じた仲兵衛は、明治３４年（１９０１）、ぶどう酒の醸造を始めました。しかし、販売は予想外に伸びず低調でした。明治３７年（１９０４）仲兵衛は、失意の中、惜しまれながら亡くなりました。<br /><br />　仲兵衛の遺志を継いだのは、長男恒治でした。恒治は、大正７年（１９１８）高畑殖産株式会社（長野県下初の農業法人）を設立し、本格的にぶどう酒の醸造を始めました。ぶどう栽培も二四町余に拡大しました。<br /><br />　ハーバード・イサベラ・コンコードなどを赤ぶどう酒に、アースダイヤモンド・レデーワシントン・ナイアガラなどを白ぶどう酒にし、生食用としては甲州・善光寺・デラウエアなどを栽培しました。最盛期には、ぶどう酒三十石を生産し、その販売先は北海道から関西方面にまでおよんだのです。<br /><br />　歴代県知事が視察に訪れたり、大正１３年（１９２４）の長野県物産品評会において、ぶどう酒として入賞したりしたのは高畑殖産のみでした。<br /><br />　明治末から昭和初期にかけては、須坂製糸の全盛期でした。週に一度の休日や勤務時間外に、製糸工女たちが散歩がてらに高畑殖産まで遊びに来ました。工女相手に、生食用や土産用としてぶどうなどの庭売りを行なったのです。これは、観光農園の先駆けでした。<br /><br />　現在も高畑地区から小布施橋にかけての国道４０３号線沿いには、もぎ取り園と直売店とを兼ねた観光農園があります。<br /><br />　昭和６１年（１９８６）は、仲兵衛がぶどう栽培を始めてから１００年目にあたりました。須坂市は、主力品種を巨峰に替え、全国的なぶどう産地となりました。須坂の地にぶどうを導入した仲兵衛の遺徳を称えるため、同年４月４日「須坂ぶどう百年記念祭」が行なわれました。そのとき建てられたのが、冒頭の頌徳碑です。<br /><br /><br /><br />法政大学史学会評議員<br />監修　　　　湯本　軍一<br /><br />執筆　　　　太田　典孝<br />]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３４話：長野県のりんご栽培の先駆者　真島町の中沢貞五郎</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2009/09/post-7.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2009:/publish//2.14</id>

    <published>2009-09-25T08:12:55Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:23:02Z</updated>

    <summary>長野市立真島小学校からホワイトリングに向かって県道445号線を進むと、本道の信号...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[長野市立真島小学校からホワイトリングに向かって県道445号線を進むと、本道の信号より少し手前の左側に、「貞嶽翁之碑」と書かれた大きな石碑が見えてきます。碑文を見ると、「翁名ハ貞五郎中沢氏」、「苹果(へいが)創業50周年」、「昭和９年」、「長野県知事岡田周造撰竝書」などの文字が読めます。今回は、長野県でもっとも早くりんご(苹果)栽培に取り組んだ人物の一人、更級郡真島村(現長野市真島)の中沢貞五郎を紹介します。<br /><br />中沢貞五郎は、真島村戸長を務めた治五右衛門の子として文久２年(1862)に生まれました。そのころの中沢家は、現在の中沢家がある場所よりも千曲川に近いところにありました。中沢家は江戸時代から篤農家(手作地主)として知られていました。<br /><br />貞五郎の祖父は源八といい、江戸時代の寛政年間(1789～1800)から、桑の実生苗木を育てたり、蚕種を製造したりしました。また、父の治五右衛門は、真島村戸長を務めたり、明治12年（1879）　に長野県勧業課からりんご （苹果）の苗木を分けてもらって自分の家の庭で育てたりしました。<br /><br />ところで、治五右衛門が県から分与されたりんごの苗木はわずか二本でした。そのとき、貞五郎は17歳になっていました。その後明治17年に、横浜で15種類のりんごの苗木や梨の苗木、レグホン種の鶏などを購入してきました。更級郡共和村岡田(現長野市篠ノ井)の柳澤亀作や同郡八幡村（現千曲市八幡）の和田郡平も横浜へりんごの苗木を買い求めに出かけています。更級郡の村々は、養蚕・生糸が盛んだったので、横浜とのつながりも深かったのでしょう。<br /><br />このころから、りんごの商品価値に着目して積極的に栽培しようとする先駆者が何人か現れました。その一人、貞五郎は29年には、生家のあった場所に200本のりんご苗木を植えて、本格的にりんご栽培を始めました。中沢家は、このときまでにはすでに水害の難を避けるため、現在地へ移っていたということです。かつての屋敷地だったので、「古屋敷苹果園」と名づけました。この年の５月半ば、更級郡下は、大凍霜害にあいました。でも、りんごとその木の下の桑園は被害がほとんどなかったといいます。<br /><br />貞五郎の大きな功績の一つとして、りんご栽培を含めた農業の協同化を進めたことです。明治33年、農家が協同して信用・販売・購買・利用の事業をおこなうことを目的に、産業組合法が公布されました。この年、真島村では更真信用組合を設立。38年には、江戸時代から苗木で有名な埼玉県の安行からりんごと柿の苗木を買い入れ、仲間にも分けました。貞五郎は、このころから積極的にりんご栽培の仲間を増やそうとしました。<br /><br />つぎに、貞五郎に関係するりんご栽培や農業経営の協同化の動きをあげてみます。45年、真島村果樹組合（のちに真島園芸組合に改称）が設立、貞五郎が組合長に推挙されました。大正５年(1916)、更級園芸組合を設立、貞五郎は副会長に就任（組合長は郡の農会長）。昭和４年（1929）、同組合長に就任。７年、同組合長を辞任。後任に長男源八。<br /><br />12年には、真島園芸組合の基本金として100円を寄贈しました。貞五郎らがおこなった協同化の具体的な内容を、大正２年の真島村果樹組合の事業報告で見てみます。３月に県農事試験場や長野市往生地などを視察。４月には県農事試験場の技師を呼んで、りんご栽培に関する講話会と実地指導。組合員の果樹園で薬剤共同調整。11月、大正博覧会への出品物とりまとめ。これ以後、品評会の実施（大正10）やりんご栽培の先進地視察（大正11）、りんご剪定競技会の開催（昭和２）などもおこないました。また、更級郡産の優良りんごを宮家へ献納し、郡産りんごの品質の良さを広める機会にもしたのでしょう。<br /><br />貞五郎は更級園芸組合のリーダーとして同業者のまとめ役を務めたが、個人としても、りんご栽培・経営の研究に熱心に取り組みました。明治40年(1907)には、振替貯金口座に加入しました。このころから、りんごの販売で得た代金の回収に、口座を利用する必要性が出てきたのでしょう。それは、前年の39年はりんごが豊作で505円の収入もあったからです。41年、岡山県から病害虫駆除のためにくん蒸袋を購入し、青酸カリくん蒸を実施。それまでの研究のたまものだったのでしょう。同年、長野市城山で開催された一府十県連合共進会で、貞五郎が出品したりんご（苹果）が一等賞を受賞し、農商務大臣から金牌を授与されました。また、43年には長野県農事試験場の嘱託を受けて、国光種の黒星病の試験を実施。大正７年には長野県農会からりんご調査の嘱託を受けました。昭和10年には県農事試験場から綿虫防除のための寄生蜂を分けてもらったり、組合の事業だけでなく、自分自身でも個人的に青森県や北海道へ視察に出かけています。このように、先進的な技術を取り入れる進取の気性にも富んでいたのです。<br /><br />このような貞五郎のりんご栽培にかける情熱も、家族に支えられたものでした。貞五郎の子どもは八男一女。長男の源八は父の跡を継いで、りんご栽培に取り組んだほか、地域の農業関係団体の役員を務めました。二男の源七郎は、りんご栽培の先進地だった東北地方や北海道余市へ視察に派遣されました（明治43）。三男源紀の宅地には真島中央荷造所が新築されました（昭和11）。四男源士郎は、開校間もない東京府立園芸学校へ入学しました（明治44）。五男の源監は、貞五郎が明治末から大正にかけて真島村の千曲川対岸にあたる大室山でりんご栽培を試みたとき、父を熱心に手伝いました。大室山でりんごを育てるため、栽培では、綿虫というりんごの害虫がいない上水内郡神郷村(現長野市豊野)に土地を借りて苗木を育て、大室山に植えました。しかし、陽当たりが良くないうえ、傾斜も急すぎたこともあり、数年でりんご園は廃止せざるを得ませんでした。六男源昇は盛岡高等農林学校を卒業し、農業の勉学を深めました。<br /><br />昭和九年に建てられた「貞嶽翁之碑」に記された「資性温厚」な人柄が、まわりの人をして、さまざまな産業組合の重要な役職や真島村長に推させずにはおかなかったのでしょう。20年５月、貞五郎は、自宅の庭にあった明治12年に県から分与されたりんごの木の脇に、父治五右衛門の頌徳碑を建てました。父と子がとともに取り組んだ、わが県におけるりんご栽培での先駆的役割の証です。その年の８月に84歳でこの世を去りました。昭和40年ころにはその木も枯れてしまい、二代目の木も10年ほど前に枯れてしまったそうです。<br /><br />監修：湯本軍一（法政大学史学会評議員）<br />執筆：舘林弘毅<br /><br />]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>第３３話：　ブドウ温室栽培の先駆者　武田貞治</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nosai.heteml.jp/publish/2009/06/post-23.php" />
    <id>tag:nosai.heteml.jp,2009:/publish//2.45</id>

    <published>2009-05-31T23:40:39Z</published>
    <updated>2011-09-14T08:24:58Z</updated>

    <summary>　竹原区は、中野市においてもブドウ栽培の盛んな区の一つです。露地栽培とハウス栽培...</summary>
    <author>
        <name>nosai</name>
        
    </author>
    
        <category term="ふるさとの農業を拓いた先人たち" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://nosai.heteml.jp/publish/">
        <![CDATA[　竹原区は、中野市においてもブドウ栽培の盛んな区の一つです。露地栽培とハウス栽培を組み合わせて、４月から１２月まで途切れることなく、ブドウを出荷できるようになっています。<br /><br />　ハウス栽培が竹原で行なわれるようになったのは、昭和４０年（１９６５）以降のこと。実は、それよりも早く昭和初期にブドウのガラス温室栽培を行なった人がいました。上手の武田貞治です。<br /><br />　貞治は明治３３年（１９００）、竹原村上手の農家武田亀治・はの夫妻の長男に生まれました。怒った姿を見たことがないと言われるほど温厚な生活だったといいます。昭和１４年（１９３９）３９才のときに父亀治が亡くなり家督を継いでいます。貞治は体格が良く、よく働く人でした。朝弁当を持って１キロメートルほど離れた畑に行くと、夕方まで帰ってこないほどよく働きました。また、良かれと思うことを誰よりも早く取り入れ、堅実に成果をあげる人でした。<br /><br />　ところで、竹原におけるブドウ栽培は、新田の下田久吉が明治３８年（１９０５）屋敷に５畝ほど植えたのが始まりです。その後、大正元年（１９１２）に下田つぎが５反歩の畑地に植え、昭和１０年（１９３５）ごろには、竹原のブドウ栽培者は９人、反別は２町６反ほどになっていました。貞治の家では、父の亀治がブドウの栽培を始めました。栽培していた品種は、善光寺ブドウ（龍眼）・デラウエア・キャンベラなどで、露地栽培でした。 <br /><br />　貞治は、昭和１４年（１９３９）に３町歩余りの土地を耕作していました。内訳をみると、米１反６畝、麦２反１畝、果樹９反７畝１８歩、桑４反２７歩、麻５反、ホップ７反４畝３歩などです。その他に、平岡村内に１町６反余り、一本木に６反３畝余り、下木島に６反５畝余りの小作地をもっており、竹原の中でもかなり大きな農家でした。<br /><br />　貞治は、先を見通す力と財力とに恵まれ、ブドウ栽培を始めとして斬新な農業経営をしました。その主な仕事は、次の４点にしぼられます。<br /><br />　１つ目は、マスカット・オブ・アレキサンドリアというブドウのガラス温室による栽培です。マスカット・オブ・アレキサンドリアのガラス温室栽培を成功させたのは、岡山県の人で、明治１９年（１８８６）のことでした。この頃、マスカット一箱が米一表と同じ値段で売れたといいます。<br /><br />　貞治は、このガラス温室栽培に目をつけたのです。自宅母屋の前の敷地に、３０坪と２０坪の２棟のガラスの温室を造りました。高さ１．５～２メートルの壁を砂利まじりのコンクリートで造り、木枠をつけてガラスを南向きに斜めに止めたものです。だるまストーブを温室の中に入れて、おがくずを燃やして加温しました。加温と言っても、霜よけ程度のものでした。むしろ、換気扇がなかったので、石灰をガラスに塗ってくもりガラスのようにし、日が差しても中の温度が上がりすぎないようにしていました。<br /><br />　栽培は順調でしたが、生産量を増やしたり、地域の農家に広がったりしませんでした。なぜかというと、ブドウは自家売りしかできないので、高価なブドウをたくさん売りさばくことはできません。また、ガラス温室を造るにはかなりの資金が必要だったためです。<br /><br />　２つ目は、遠方の出荷先の開拓です。当時、ブドウは自家売りの地元消費でした。竹で作ったかごやざるに入れ、できるだけ揺らさないようにして、中野や山ノ内の青果店に出荷していました。<br /><br />　出荷量を増やすには、新規の出荷先を開拓することが求められます。しかし、ブドウは輸送中の振動で房が落ちてしまうので、遠方への輸送や大量の輸送はできませんでした。そこで、貞治は遠くまで運ぶために「木毛」という、木をかんなで削ったような薄く細い木くずをクッションとして敷き詰める工夫をしました。そして、遠方の出荷先を求めて、自転車の荷台に１００～１５０キログラムものブドウを積んで富倉峠を越えて新潟県へ持って行ったこともありました。自転車での富倉峠超えはやはり大変な苦労でした。そこで、自動車（オート三輪）を使った輸送を考えたのです。<br /><br />　貞治は、すでに昭和１５年（１９４０）「イワサキ号」（旭内燃機製）というオート三輪を７００円で購入しています。この当時、中野地方では車は数台しかありませんでした。竹原では貞治だけでした。「イワサキ号」は、オートバイの後輪が２つになっていて、エンジン動力が後輪を回転させます。その上に荷台が付いていて、屋根はなく、ハンドルはオートバイと同じ棒状の自動車でした。貞治は、そのオート三輪にブドウを積んで、飯山・長野・新潟県などの遠方へも出荷を可能にしたのです。踏切で汽車と接触したことや、動かなくなって牛を連れて行って引っ張って帰ってきたこともあったそうです。戦後の昭和２５年（１９４０）には、２台目のオート三輪「ヂァイアント」（愛知機械工業製）を１０万円で購入しています。<br /><br />　また、信越線の客車便（旅客列車で輸送する小荷物）を利用して、東京の青果専門店（千疋屋）へも出荷していたという話もあります。<br /><br />　３つ目は、農作業の機械化です。貞治は昭和１６年（１９４１）に電動機（モーター）と電動脱穀機、１７年に電動噴霧器、１８年に発動機（エンジン）を購入しています。灯油の低速水冷エンジンであり、メーカーはカイルとクボタ、薬剤散布と脱穀に使いました。エンジンが急速に普及したのが２０年代半ばなので、貞治の機械化は早い方でした。<br /><br />　また、３５年（１９６０）に竹原で共同防除組合が結成され、スピードスプレヤー（ＳＳ）が購入されました。　１台２５４万円で非常に高いものでしたが、成績が良好だったので、翌年は３台、３８年には４台と増やされました。高価なものでしたが、財力のあった貞治は、個人でも購入していたといいます。<br />　４つ目は、泥棒よけのためのガチョウの飼育です。人が近寄ると大騒ぎして鳴くので、泥棒よけの効果を期待して戦前の昭和１０年代にブドウ畑で数羽飼っていました。実際にその効果はあったようですが、時にはうるさすぎて近所迷惑だったという話もあります。<br /><br />　４６年（１９７１）１２月、７２才で貞治は亡くなりますが、亡くなるまで現役で仕事をしていたといいます。<br /><br />
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image">&nbsp;</span>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image">&nbsp;</span>
<span style="DISPLAY: inline" class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><a href="http://nosai.heteml.jp/publish/koramu.jpg"><img class="mt-image-none" alt="koramu.jpg" src="http://nosai.heteml.jp/publish/assets_c/2009/12/koramu-thumb-428x174-69.jpg" width="428" height="174" /></a></span><br /><br /><br />監修：　湯本　軍一　（法政大学史学会評議員）<br />執筆：　高木　元治<br />]]>
        
    </content>
</entry>

</feed>

